Tan-Tan

パートナーを自死で亡くしたグリーフサバイバー(自死遺族)の毎日を淡々と綴っています サイト→『andante』https://andante069.amebaownd.com/

死別遺族者の会にいってきた

元夫が亡くなって1年が過ぎて、「時間が解決してくれる」と誰もが言っていたし、わたしもそう思っていた。

ところがまったく癒されない。むしろどんどん辛くなる。時間の経過と共に話したいことも話しづらくなり、自然と口も心も閉ざされていく(ツイッターでは書きなぐってるけど)。

表向きは、明るく振る舞わなくてはならない、しっかりしなくてはならない、ちゃんとしなくてはならない。そうして自分をがんじがらめにして、毎日(特に毎朝)絶望感でいっぱいで、生きる気力も意欲もわかない。なんとか仕事をして、日々生活をしている。そんな毎日である。

自助グループの存在は以前から知っていた。遺族者に限らず、特定の病気の患者の会だったり、依存症患者の会だったり様々なものがあって、どこで何が行われているか、いまは調べればインターネットですぐに見つかる。

元夫が亡くなった直後、グリーフケアを勧めてくれた人がいた。自分には不要だと思った。11年前、父親を病気で亡くしたが、そういったケアに頼ることなく、遺された家族でただ淡々と過ごすことができたからだ。

「父の時とは何かが違う」と感じ始めたのは、自分がからだを壊してろくにモノが食べられなくなった今年の秋のことだった。

それまで、元夫の死の意味を探しては、それをスピリチュアルなもので埋めようとしていた。宗教や哲学、自己啓発も含めていろいろな本を読み、セミナーにも参加した。しかしそれで癒されることはなかったし、意味も答えもわからないまま、耳障りだけはいいような、「神は乗り越えられる試練しか与えない」的ななぐさめばかりで、数万単位のお金が消えていくばかりだった。

自分のなかに答えはあることは知っている、でも自分だけではどうにもならない、友達にもこれ以上弱音が吐くことができない(吐いてもいいのはわかるんだけども)・・・11月頃、グリーフケアについて改めて調べることになった。

死別遺族者の会が各地で行われているのはすぐにわかった。自死遺族者の会があることも。とりあえず、自死に限らない遺族者会が直近であったので、それに参加してみることにした。

集まった参加者は10名程度。ひとり、司会進行役に方がいるが、集まったのはすべて死別遺族者だ。自死遺族はわたしひとりだった。

初めての参加で不安もあったが、当日は結構しゃべったように思う。話すつもりがなかった当時の状況も、わりと詳しく言ってしまった。他の参加者がそれを聴いて、どう思ったかはわからない。不快な思いをしなければいいな、と思う(こういうところが、自死遺族者の抱える独特なところだと思う)。

実際に参加してみて、安心して死について話せる場があるのは本当に助かると思った。何年経っても悲しい時は悲しんでいいし、逆に、何年経っても悲しいことは悲しいままなのだ、と思った。泣いている人、淡々と話す人、怒っているように話す人、笑いながら話すわたし、といった具合だった。

一方で、「みんなとはなにかが違う」違和感があったのも否めない。というのも、自死は病死に比べて(比べるところではないとはいえ)やはり特殊なように思う。たとえば、『父親を病気で亡くした娘』として参加していたら?たらればではあるが、そんなに違和感は覚えなかったような気がする。

そしてその違和感は、自死遺族者の集まりでは拭えるのか、または拭えないのか。来週に予定を入れたので、実際に足を運んでみようと思っている。

予想としては、拭えないんじゃないかなあと思っている。